第10回インタビュー 箱崎晋一郎「抱擁」

――おはようございます。今回は第10回目のインタビューです。
今日は番外編の第2回目として、箱崎晋一郎さんの「抱擁」をとりあげたいと思います。
どうぞ宜しくお願い致します。

 こちらこそどうぞ宜しくお願いします。

箱崎晋一郎「抱擁」
1974(昭和49)年11月5日発売
東芝EMIレコード(TP20067)
作詞:荒川利夫 補作詞:藤本美沙 作曲:山岡俊弘

――「抱擁」はムードたっぷりの曲です。レコード各社から発売されるムード編や、有線ヒット曲集や、ダンス編などのオムニバスのCDには必ず入っている曲です。カラオケでは男性は勿論、女性の方も好んで歌う、そんな馴染深い曲が「抱擁」ではないかと思います。
では、まず京さんがこの曲を編曲されたきっかけなどから、お聞かせいただけますか?

 私は以前にもお話しましたが、京都から上京して編曲の仕事をスタートさせました。昭和49年の頃ですから1974年ですが、当時はまだ編曲だけでは食べていけない(笑)ので、音楽プロモーターという仕事もしてました。

――音楽プロモーターというのはどんなお仕事ですか?

 ひとにより様々ですが、私の場合は主にレコード各社の毎月の新譜をチェックしていました。

――新譜のチェックですか?

 レコード会社のイチ押しの新譜を聞いて、その曲の特長や将来性を探り、ヒットの芽をさらに大きくするという仕事です。

――小さなヒットからメガ・ヒットにさせるということですね。たとえばどんな作品がありましたか?

 「くちなしの花」渡哲也さんや、「昭和枯れすすき」さくらと一郎などがうまくいった例でしょう。

――「くちなしの花」は今でもカラオケに行くと必ず歌う友人がいます(笑)。

 「くちなしの花」は私が音楽プロモーターになる前年の1973(昭和49)年8月の発売でしたが、この曲に目をつけ翌年には火をつけることが出来ました。

――(調べて)水木かおる作詞/遠藤実作曲/斉藤恒夫編曲で、ロングセラーを達成して150万枚も売れたんですね?

 こんな良い曲はない、絶対ヒットすると思ってアピールしたことを憶えてます。

――「昭和かれすすき」は(調べて)むつひろし作詞/山田孝雄作曲/伊部晴美編曲で、これまた150万枚のヒット曲ですね?

 「昭和枯れすすき」は1975(昭和50)年の4月だったか、オリコンのヒットチャートの1位を3週連続で獲得したことがあったと思います。普通は演歌の範疇には入らないし、ゲテモノみたいな曲だから売れるわけがないという人が会社(ポリドール・レコード)の中には沢山いらした(笑)。

――それでも音楽プロモーターという影響力のあるひとが目をつけることによって大ヒットするんですからすごいことですね?

 場合によってはレコード会社がそっぽをむいているような曲もチェックして、レコード会社に逆提案してあげるということもしていました。

――逆提案といいますと?

 水ものと言われるレコード・ビジネスは、予想もしないところから火が点くこともあるわけです。

――京さんのような実績のあるひとから、これは売れますよと言われると、レコード会社もほっとけないんでしょうね?

 とりあえず耳を傾けようということになるんでしょう(笑)。

――ということは「抱擁」も京さんのアイディアでレコード会社が動いたということですか?

 そうと言いたいところなんですが、実は「抱擁」はちょっと違ってるんです(笑)。「抱擁」は新譜ではなくて箱崎晋一郎さんのヒット曲「熱海の夜」のB面だったんですよ。

――新譜ではなく旧譜の、それもB面に入っていた「抱擁」に目を付けられたということですね?

 そう、以前から気になっていまして(笑)。

――「抱擁」の場合は、特殊なケースということですね?

 そう、かなり特殊だと思います。

――「熱海の夜」(調べて)は、1969年1月10日に東芝音楽工業(東芝EMIの前の社名・現在はユニバーサルミュージック)から発売されてます。作詞が荒川利夫、補作詞が藤本美沙、作・編曲が川口真となってます。

 A・B面同じ作詞、作曲、編曲による作品ですね。

――するとプロモーターの京さんの耳には、A面の「熱海の夜」よりもB面の「抱擁」に魅力を感じたということになりますか?

 普通はB面までは聴かないんですが、たまたま「熱海の夜」のシングル盤の両面を聴く機会があったんでしょう。聴いた瞬間、「抱擁」はB面の曲じゃない、アレンジをし直せばA面として絶対にヒットすると思ったんです。誤解されるといけないので言っときますが「熱海の夜」はA面に相応しい素晴しい曲ですし、編曲も素晴しいですよ(笑)。

――B面の「抱擁」をお聴きになったその時の印象は?

 編曲としては完成されてます、勿論。川口真さんですからね。ミュゼットアコとエレキ・ギター、クラリネットと弦の編成で、ドラムが細かくリズムを刻んでいて、シャンソンの香りのする洗練された曲というイメージだったことを覚えています。

――するとこんな感じの編曲にすればヒットするというアイディアをその時お持ちに?

 たぶん持ったのではないかと思います。自分だったらこうしたいという構想が湧いたんだと思います(笑)。

――余談ですが、「熱海の夜」は(調べて)オリコンのデータでは最高位が34位で、登場週の回数が28回ですから、大ヒット曲ですね?

 「熱海」は昭和3,40年代の頃は新婚旅行のメッカで、会社の旅行や宴会なども盛んで人気の温泉観光地でした。東京から近いですからね。

――(調べて)その頃は芸者さんが1,200人以上もいらしたようですね?

 今も人気の温泉地として賑わってるそうですよ。

――今は200人だそうです(笑)。

 それはすごい。

――さて、京さんがB面の「抱擁」の魅力を感じられて、別の編曲での発売を東芝EMIの誰に提案されたんですか?

 ディレクターさんです。こんな「抱擁」という良い曲にB面の服を着せたままでは可哀想だと会合か何かの機会に話しました。

――反応はいかがでしたか?

 意図はわかっていただけました。すぐに企画に上げるわけにはいかなかったんでしょうが、それでもその年の秋に新譜の企画が通ったという報告をいただきました。併せて私の提案で湧いた企画ということで、言い出しっぺの私に編曲をお願いしたいと・・・。

――編曲のご使命をいただいたんですね(笑)。
「熱海の夜」というヒット曲があればこそ、「抱擁」が皆に親しまれる名曲に変身するチャンスができたわけですね?

 そう、それでその時ディレクターさんから、「ジャケットに編曲者の名前も入れるけれど、本名の安野健三では格好悪いので、なにか良い名前を考えてください。」と言われました。それで色々考えに考えて、京建輔という名前にしたんです(笑)。

――京都出身なので、京という名前を頭にもってこられたわけですね。解りやすくて良いですね?

 姓名判断の先生からも良い名前だと誉められました。

――名前は大切です。運勢との関連をいわれますが?

 そういうのはカミさんが一生懸命ですから(笑)。

――さて、新譜をめざして「抱擁」の録音はいつ頃されましたか?

 (スコアを見て)1974年8月24日ですね。

――すると約3ヵ月後に念願の発売の運びとなったわけですね?
B面が「傷跡」(夏川純 作詞・作曲)です。こちらも京さんの編曲ですか?

 そうです。「傷跡」も同じ日にオケの録音をしてます。こちらはアップテンポでちょっとポップな感じが生きるように仕上げたと思います。傷跡をもつ女性を歌っているんですが。

――ちょっと聴いてみましょう。
(聴く)

 楽器の編成が、メインの「抱擁」に近い形で考えられてますね。今でいう省エネ編成でしょうか。ドラム、ベース、エレクトリック・ピアノ、エレキ・ギター2丁のほかに弦と女声コーラス、そしてメインにアルト・サックスといったところですか。

――森進一さんのような雰囲気で歌ってますね?
「抱擁」も聴いてみましょう。
(聴く)

 自分で言うのもなんですが、シンプルで良いですね。
この頃はシンプルなオケで歌を盛り上げるという編曲が大切で、そんな配慮がよく行き届いてます。ドラム、ベース、アコースティック・ピアノ、ヴィブラフォン、グロッケン、エレキ・ギター2丁と弦、そしてアルト・サックスですね。

――この歌がムード歌謡のお手本といわれる訳がよく解ります。
箱崎晋一郎さんの甘えるような歌い方が素敵で、女性でなくともうっとりしちゃいます。これが魅力なんでしょうね?

 この歌は歌詞からもわかる通り女性の歌ですよね。1番と2番の間奏のところで女性が男性に誘いをかけるような弦の演奏があります。今度聴くときは注意してみて下さい(笑)。

――はいわかりました。
1番から3番まで、最後の歌詞が「泣きたくなるほどあなたが好きよ」ですが、この詞が効いてますね、男のひとなら誰でも言われてみたい、そんな詞ですね(笑)さて、新編曲の「抱擁」が発売されました。売れ具合はいかがでしたか?

 それが大変残念なんですが発売して新年を迎えても売れる兆しが見えなかったんです。

――京さんのアイディアで編曲を変え、装いもあらたに発売されたにもかかわらずですか?

 オリコンの「ベストヒット100」に顔を出すこともなく、有線でのリクエストもかんばしくなかったんです。毎月沢山発売される新譜の中に埋もれてしまいました。

――そうでしたか。
しかし売れなかった原因には色々あるでしょうが、その中には時代の要求がまだなかった、世に出たのが早すぎたっていうことになるんでしょうか?

 売れないことのほうが多い世界ですからね(笑)。

――しかしそういう残念な結果があったからこそ、4年後の1979年に再び「抱擁」が発売されて、今度は目出度くヒット曲として世に知られるようになるわけですね?
【第一部終わり】

1979(昭和54)年5月20日発売
東芝EMIレコード(TP10588)
作詞:荒川利夫 補佐詞:藤本美沙 作曲:山岡俊弘

――さて「抱擁」の第二部にまいることにしましょう。
「抱擁」がふたたび発売されることになったのが1979(昭和54)年のことです。この後ようやくヒットの声が聞けるわけですが、どういうわけで再発売の動きが出たんでしょうか?

 第一部の「抱擁」はヒットチャートにものらず、有線のリクエストもかんばしくなかったと申しあげましたが、再発売のきっかけは実はその有線なんです。それも札幌の有線でして、そこでじわじわと火がつき全国に飛び火していったようです。

――札幌ですか。それはいつ頃からですか?

 再発売される前年頃ですから1977~8年ですか。

――札幌の有線で評判が良いと、ヒットにつながる確率が高いということを以前聞いたことがありますが?

 レコード業界ではよく言われていたんです。当時のヒットのバロメーターは札幌だと(笑)。

――有線で人気が出てきたことの原因は?

 カラオケだと思うんです。

――カラオケ?

 今は通信カラオケなどがカラオケの主流ですが、その頃はカラオケの専門店などもちろんなくて、スナックやパブなどに置いてある8トラックのテープでカラオケを歌ってました。その頃に丁度カラオケが普及し始めたんです。

――そういえば厚い歌詞本をめくりながらカラオケを歌ってました。(調べて)カラオケ文化っていうのは1976年頃に業務用のカラオケが普及し始まめたたようですね。第二部の「抱擁」の発売する2~3年前ということですね。

 昔のスナックやクラブでは、ピアノやギターの伴奏で歌ってましたからね。

――飲み屋で歌いたい曲をリクエストすると店のママさんが8トラックのテープを棚から引き抜いて、カラオケ機器の正面にある挿入口にテープを押し込む。カラオケがスタートするまで少々時間が必要でしたね?

 業務用のカラオケが普及すると追いかけるように家庭用のカラオケも普及して一般的になりましたね。

――そうでした。お花見の頃には桜などそっちのけで、あっちでもこっちでもカラオケ大会が開かれるほどになって。「一億総カラオケ時代」だなんて言ってました。そんな社会現象がおこり(調べて)1980年には環境庁がカラオケ騒音対策として、カラオケ規制モデル条例を作成したとなってますね?

 「隣の飲み屋のカラオケの音が夜遅くまで続いて困る」なんて苦情も多かったんでしょう。

――カラオケの普及が進んで、仲間の誰かがスナックで「抱擁」を歌ってたのを聞いて俺も歌ってみたいと思い、レコードを買って覚えようと思う。そうすればあいつより上手く歌えるんだと考える。ところがレコード店にはもう「抱擁」のレコードが置いてない。それなら有線でリクエストして覚えよう。そんな流れで有線へのリクエストが増えて「抱擁」に火がついたんでしょうか?

 たぶんそのケースが多かったんだと思うんです。酔っぱらってくるとムード満点の曲を歌って、あいつよりも上手く歌おうって誰でも思いますからね(笑)。

――他(ひと)人より上手く歌いたい、驚かせたいという万人の欲望は普遍ですね?

 それとご存知のように「抱擁」は3拍子の曲です。カラオケで誰かが歌うと、男女のペアがそれに合わせて踊るなんてことも多かったようで、そんなこともヒットする要因だったかもしれません。

――ダンスが目当てでカラオケに来る方は多いそうですね。男女のペアがなくても女同士で踊ったりしてますね?

 そういう動きを察知したのが東芝EMIのディレクタ―、武居弘明さん。発売し直せば間違いなく売れるということで、新規のジャケットで、値段も4年前の500円から当時のシングル盤価格の600円に変更して再発売されました。

――どこの盛り場にもあるような雑居ビルの看板を窓越しにクラブのママさん(?)がグラスをもっているイラストのジャケット、なかなか良いですね?

 雰囲気満点ですね。こういうジャケットだったこと、あまり覚えてませんが(笑)。

――発売年(1979年)の有線ベストセラーの実績を見ましょう。すごい、29位にランクされてます。発売して6カ月しか経ってないのに。リクエストが殺到したことががわかります。さらに翌年(1980年)は一挙に6位を獲得しています。

 ああ、やっぱり凄かったんですね。

――ちなみにその時の有線の第1位が「ダンシングオールナイト」(もんた&ブラザーズ)、2位が「別れても好きな人」(ロス・インディオス&シルヴィア)、3位は京さんが編曲した「おまえとふたり」(五木ひろし)です。4位が「ランナウェイ」(シャネルズ)、5位が「雨の慕情」(八代亜紀)となってます。懐かしい曲が並んでますが、その次の6位が「抱擁」ということですね?

 これで有線からヒットしたことがよく理解できますね。
五木ひろしさんの「おまえとふたり」も3位に入ってるんだ(笑)。

――その頃にはもう京さんはビッグな作品の編曲をしっかりと(笑)されてたんですね?

 とうに音楽プロモーターは辞めて、その時代には編曲の仕事に専念してました。

――五木ひろしさんの「おまえとふたり」は第二部の「抱擁」と同じ1979年の新譜ですね?

 ところで「抱擁」のヒットチャートの具合はどうでしたか、すぐには売れなかったと思いますが?

――5月20日に発売して2か月あまりは100位以下です。7月23日付のオリコンの98位に登場して、その後は年末まで70~80位のあたりを行ったり来たりしてますね。翌年の3月まで60~70位の間を動いています。

 やっぱりすぐには目が出なかったんでしたね。

――でも上位ランクじゃないが常にヒット・チャートの100位以内に顔を出しています。それが素晴らしいですね?

 立派です。ロング・ヒットの代表ですよ。

――オリコンの100位以内に54週も顔を出しているんですから。1年間以上ということです。

 「北国の春」も「すきま風」もこの頃に発売の曲でしょう。長く売れるという点では同じ傾向ですね。

――「北国の春」は1977年、「すきま風」は1976年の発売です。実は「抱擁」が一番売れた時期が発売翌年の4月で、オリコンのヒット・チャートの4月28日号で46位を獲得しているんですが、その頃「北国の春」と「すきま風」も同じランク付近に顔を出してます。

 「北国の春」も「すきま風」も発売して3,4年目ですよね。それでも顔を出していたんですか?

――「抱擁」が65位になった1980年(発売翌年)の2月11日のヒット。チャートでは「北国の春」が75位、「すきま風」が58位に登場しています。翌週の2月18日に「抱擁」は56位、「北国の春」が91位で「すきま風」が61位となってます。

 3曲がチャートの近いところで並んでいた時期があったんですね(笑)。
3年も4年もヒット・チャートに顔を出すことは今ではないことですから、あらためて驚きですね。

――それに「抱擁」がヒット・チャートに顔を出さなくなった1ケ月後の9月22日に今度は「奥飛騨慕情」が顔を出してます。「抱擁」の代わりですとでもいうように82位の初登場です。翌週は82位、翌々週の10月6日には53位までランクを伸ばしています。快進撃の開始ですね?

 「奥飛騨慕情」はその年(1980年)の6月の発売ですから、その時あたりから火がついたんですね。

――そして翌年に大爆発するんですね。そんなことも重なり1980(昭和55)年度にオリコンが発表している「活躍した編曲者のランク」で京さんは第6位です。ロング・ランの曲に携わった京さんの評価が反映された結果だということがこれからもわかります。

 若くて元気だったんでしょう(笑)。

――ちなみに5位は京さんが演歌の編曲者として尊敬されていた斉藤恒夫さんで、獲得点数が174万9千枚で京さんと同点なんです。ゴルフと一緒で、同点の場合は生年月日が古いひとのほうに、新しいひとは譲ることになってるんですね(笑)?

 私が音楽プロモーターのときに「くちなしの花」のメガ・ヒットに貢献できたことをお話しましたが、斉藤恒夫さんは「くちなしの花」の編曲者です。斉藤恒夫さんはその後も1975年発表の「みちづれ」(1975年発表)や1980年の「あじさいの雨」など渡哲也さんの曲の編曲を多数手がけられています。

――1990年にお亡くなりに?

 そう本当に残念なことでした。60歳では早すぎます。もっともっと活躍していただきたかった。

――1979年に牧村三枝子さんが渡哲也さんの「みちづれ」を歌って、100万枚近く売れたことが得点ポイントに大きく貢献して、京さんよりひとつ上の6位だったんですね?

 ということは牧村さんの「みちづれ」の編曲も斉藤恒夫さんだったんですね。

――さて第一部の「抱擁」のときにお聞きできなかったので質問いたします。「抱擁」のバックを務める楽器のなかでアルト・サックスが大変印象的です。歌が始まる前のムードを高める役割は大きく効果的だと思います。これはどなたの演奏でしょうか?

 「抱擁」は1974年の録音ですね。私はまだ駆け出しですから、演奏者を指定して録音に臨むなんてことは出来なかったので、はっきり覚えていないんですが、多分、佐野正明さんだと思います。30代の頃からスタジオ入りしていらして、クラリネットでも活躍されてました。国立音大でクラリネットを専攻したと聞いてます。石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」のイントロに出てくるテナー・サックスのあの唸り節で有名な方です。

――そうですか、あのサックスは特長的なので誰でも知ってますね。
青函連絡船の霧笛みたいですね?

 一種の職人芸ですね。弟さんもサックスを吹かれてます。現役のスタジオ・ミュージッシャンとしても活躍されてる佐野博美さんです。

――いっときは兄弟でご活躍だったんでしょうね。
それからピアノなんですが、どなたが弾かれているんでしょうか?バックのアドリブがなんとも言えず格好良いんですが?

 「鈴懸の径」で有名な鈴木章二さんのお兄さんの鈴木敏夫さんだと思います。
おっしゃるように、アドリブが素敵で、箱崎晋一郎さんの歌を上手に盛り上げてくれてますよね。

――以前5回目のインタビューで吉幾三さんの「雪國」を取り上げたとき、NHKラジオ深夜便で五木寛之さんが「雪國」について語られた内容をご紹介しましたが、この「抱擁」についても2009年6月号に掲載の「我が人生の歌語り」にのってますので、こちらもご紹介したいと思います?

 どんな風な内容ですか?

――1979年はジャパン・アズ・ナンバーワンという本(エズラ・F・ボーゲル著)が話題になった一方で「日本の家はウサギ小屋」という言葉が流行ったこと、携帯できるヘッドホン・ステレオが大流行して、歩きながら音楽を楽しむひとが多くなったこと、それにインベーダーというゲームが喫茶店のテーブルにはめ込まれていて、多くのひとが電子音を聞きながら夢中になって遊んだ年であった、などといったことが主でしょうか?

 するとカラオケ文化の始まりと電子ゲームの文化の始まりの時期は近かったんですね(笑)。

――音楽の面では、新しいリズムの音楽と伝統的な歌謡曲の両面が見えた年で、今年を象徴する伝統的な歌謡曲として「抱擁」を取り上げたいとおっしゃってます。

 そうですか、それで。

――「抱擁」は多くの人たちがひそかに愛唱していた曲だということ。知っているひとは少ないかもしれないがバーブ佐竹さんを彷彿とさせる箱崎晋一郎さんの声は五木寛之さんをしんみりとさせるということ。そしてこういう感覚(しんみりとする)が自分自身の中にあったことをあらためて感じた。そんな風におっしゃっています。

 しんみりとしてしまう感覚ですか。やっぱり作家さんですから鋭い感覚と繊細な感性をお持ちなんですね。

――五木寛之さんを「しんみりとさせる」箱崎晋一郎さんの声は、実は京さんの編曲、例えばサックスの音色に触発されて出てきたものだということにも触れてほしいですね?

 そこが編曲者の悲しい部分なんですが、これは「縁の下の力持ち」という仕事柄しょうがないことなんですよ(笑)。

――さて、もっと色々お聞きしたいのですが時間もまいりました。今日はここまでにしたいと思います。長時間にわたり色々と有難うございました。

 こちらこそ、どうも有難うございました。

――次回は特別編の第3回目を予定したいと思います。

第11回インタビュー

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