第5回インタビュー 吉幾三「津軽平野」「雪國」

――今回は吉幾三さんの「津軽平野」と「雪國」にスポットを当て、京さんの編曲にまつわるお話を色々と伺いたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

 こちらこそ、どうぞ宜しく。

津軽平野

――まず吉幾三さんが作詞・作曲されて、千昌夫さんが歌われた「津軽平野」(CTS-2002 徳間音楽工業)についてお伺いします。
京さんが「北国の春」の編曲をされたのが1977(S52)年で、その7年後に、この「津軽平野」を編曲されていますが?

 そうです。「津軽平野」は、吉幾三さんが千昌夫さんに贈った曲です。昭和59(1984)年になりますか。
吉さんは青森の北津軽郡(現 五所川原市)金木町、千昌夫さんは岩手の陸前高田のご出身で、共に北国の出でいらっしゃる。

――東北出身者同士ということで仲が良いんですね?

 そう、千さんは、歌うばかりでなく曲を作れる吉さんを高く買っていらした。それで吉さんは千さんに「津軽平野」などの曲を提供したり、逆に千さんは吉さんの「俺ら東京さ行ぐだ」のプロデュースをして、共にヒットを飛ばした。そんな関係なんです。

――吉さんは16歳で東京に出てこられて、1972年に山岡英二の名前でクラウンからデビューされていますね?

 デビュー5年後に吉幾三と名前を変えて、自作の「俺はぜったいプレスリー」で名前が売れるまでは、レコード会社もいくつか変えたりで、随分と苦労されたようです。

――「津軽平野」の発売は1984年3月25日、「俺ら東京さ行ぐだ」は1984年11月25日の発売、どちらも1984年ですね?

 吉さんが当時アメリカで流行し始めていたラップにヒントを得て、「俺ら東京さ行ぐだ」を作った。ところがこの曲を売り込んでもどこのレコード会社も振り向かない。それで、千さんが原盤権を買い、プロデュースして徳間ジャパンから発売し、それがヒットした。そんな経緯があるんです。

――1984年というと、CDやレーザーディスクが出てきた年で、アナログの時代からデジタルの時代に変わった記念の年ですね?

 そうそう、家の近所のカラオケ・スナックもエンドレス・テープの8T(ハチトラ)からレーザー・ディスクに切り替わりました。飲み仲間が「俺ら東京さ行ぐだ」を入れ替わり立ち代り歌ってた。「♪レーザー・ディスクは何者だー♪」ってな調子で(笑)。

――吉さんは世の中の新しい流れをキャッチされて、詞に取り入れたんでしょうか?

 そう、吉さんは新しいものにも敏感で、というか大変な勉強家なんですよ(笑)。

――この「俺ら東京さ行ぐだ」の人気を受けて映画も製作されましたが、その音楽を京さんが担当されていらっしゃるんですね?

 ええ、上柴はじめさんと一緒にしました。吉さんが、タクシー運転手か何かの役で出演されていたと思いますよ。

――吉さんが「津軽平野」を訪ねる番組「にっぽん列島朝いちばん」《みちのくうた紀行――津軽平野 春お父が帰る》(1985年4月15日放送)のビデオを見つけました(笑)。

 その番組は見た覚えがあります。吉さんの出身地の北津軽郡の金木町で、出稼ぎから帰って来る父親(おどう)を迎える奥さんや子供が、恥ずかしそうに吉さんのインタビューを受けているシーンがあった。

――金木町というところは青森のどのあたりになるんですか?

 金木町は、岩木山よりずっと北の、津軽半島に少し入ったあたりで、青森市の北西にあたる町です。広々とした田畑とリンゴ畑が美しくて、津軽平野の南方に岩木山が見えるんです。

――ああ、よく写真や映像で見るまさに津軽平野という綺麗なところですね?

 でも冬は大変です。吉さんは生まれ故郷の冬の厳しい環境を良く知っていらっしゃって、待ち遠しい春と、出稼ぎから戻ってくる父親(おどう)を迎える家族のわくわくした気持を歌にしたんだと思います。

――そんな「津軽平野」を編曲される時は、何にポイントを置かれましたか?

 出稼ぎの詳しい状況は当時良くはわかりませんでした。でも、この詞を見て、だいたい想像できました。

――詞の内容が分かりやすかった、ということですか?

 そうです。寒い冬が過ぎ、春になれば土産をいっぱい抱えた父親が出稼ぎから帰って来る。それまでは家に残った者が、じっと我慢して、耐え忍ぶんだという東北魂が土台にあって。すぐにイメージが湧きました。

――イントロを聞きますと、美しい旋律を吹いている木管楽器がとても印象的ですが、この楽器は?

 オーボエです。最初はコールアングレ(別名:イングリッシュホルン)でいこうかと考えましたが、音符の一番下の音がCでして。コールアングレに比べてオーボエは低い音が出ない楽器なんですが、幸いCだとオーボエで吹ける音だったので、オーボエにしました。

――透明感のある音の楽器ですね?

 オーボエは、ちょっと冷たい音のイメージがありますが、それでも長いトーンの響きは、温か味があるんです。

――以前聞いた話ですが、オーケストラの開始前に、オーボエ奏者に細かいフレーズの練習をされると、そばにいる人はうるさくてかなわない、そんな話をフルート奏者から聞いたことがありますが?

 そういう強い音をあわせもっている楽器で私は好きなんです。

――このイントロを聞くと、目の前に広い平野と、ほのぼのとした田園風景が開けるような感じがしますが?

 そうでしょう。そういう効果がある、というよりそれを狙っているんですが(笑)。

――津軽平野が遠くに見えてくるような感じがしますね(笑)?

 でも、実はこの曲のタイトルは最初「親父(おどう)」だったんです。その時は「おどう」って何のことだろうと不思議に思っていました。

――津軽平野ではなく父親(おどう)ですか?

 最初の打ち合わせをレコード会社の長谷川ディレクターとしたとき、余談ですが、徳間の担当ディレクターが「北国の春」の時の和田さんから長谷川さんに代わったんですが、その時はイントロは尺八でいきましょう、という提案があったんです。

――尺八であっても可笑しくはないですよね?

 でも私は、それではありきたりでつまらないと考えて、代わりにオーボエをイメージしました。

――それが結果、良かったんですねー(笑)。
イントロのオーボエの裏でガット・ギターがオーボエの話しかけに応えるように演奏していますが、これがまた良いですね?

 そう、編曲は楽器の取り合わせがとても大切です。主役のオーボエに対して、脇役のガット・ギターの役割は予想以上に大きいんです。ただ歌が始まるとこのガット・ギターはオーボエでなく、今度は千さんの歌を盛り上げる為の、別の役割を持つことになります。

――後で注意して聞いてみたいと思います(笑)。
歌の半ば(9小節目)から女声コーラスが出てきます。歌の核心に向かって盛り上がっていくのがよく分かりますね?

 人間の声はやはり強い印象を与えますし、特に女声の和音はとても聞いていて気持の良いものです。

――何人位でハモルんですか?

 普通は3人です。この時も3人で川島和子さんのグループにお願いしたかと思います。

――女声が3人だと安定感があって、聞く人も曲の中にゆったりと浸ることができますね?
それでは、この辺で話を「津軽平野」から「雪國」に移したいと思います。

雪國

――「雪國」は、「津軽平野」から2年後の1986年2月25日に発売(7CTS-4003)されました。編曲の依頼はどのように?

 実はこの曲、一度別のアレンジャーの編曲で録音されたことがあるんです。

――それは初耳ですが、「奥飛騨慕情」の時と一緒ですね。また何故そんな具合になったんですか?

 吉さんは「雪國」を作った頃には、幾三音楽という出版社をもっていました。で、「雪國」の原盤はキャッツタウン、千さんの会社です。ディレクターは「津軽平野」と同じく徳間の長谷川喜一さん。当然ヒットさせる使命があるわけです。ところが長谷川さんは最初に録った編曲が気に入らなかった。何度聞いてもしっくりこなかったそうで、録り直すことを考えたそうです。別の編曲家のアレンジで。

――それは制作費が倍になるわけで、大変な決断ですが?

 でも一大決心で、吉さんに相談して、それで録り直しを決めたそうです。
その後、私に編曲の依頼があったわけです。このへんの事情を取材して作ったNHKの番組があったんです。確か「そして歌は誕生した~名曲のかげに秘められた物語」という番組(1999年2月27日放送)で、いかに「雪國」は誕生したかという内容です。

――それは面白い番組ですね?

 長谷川ディレクターが、再録音の編曲を誰に頼もうかと苦慮したあげく、「困ったときの京建輔」という、これは長谷川さんご自身が考えたフレーズなんですが、それを思い出して、私に再録の依頼をする、という話をするんです(笑)。

――それはまた面白い。京さんがアイディアマンで、人助けに長けていらっしゃるので「困ったときの京建輔」と長谷川さんが付けたんでしょうね?

 その長谷川さんの話を受けて私がTVに登場、その辺(あたり)の事情をスタジオのコンソールをバックに、ディレクター・チェアに座って話すんです。

――スタジオのコンソールって、お仕事の合間の取材ですか?

 そうではなく、番組が私の家で取材したいというのを断わったので、代わりに取材場所をスタジオで設定してくれたんです(笑)。

――どんな内容ですか?

 まあ、これから同じことをお話しすることになりますけれど、私は長谷川さんが気に入らなかったという初代「雪國」のアレンジを聞いてみたかったが、長谷川さんは聞かせてくれなかった。これは番組では話さなかったかな(笑)。

――きっとそのアレンジに引っ張られるといけないという長谷川さんの配慮では?

 それで私は吉さんに直接電話して、聞くことにしました。
ところが吉さんは開口一番、「先生、ドバーっと雪を降らせてね」っておっしゃるんです。で、私が「青森の雪ってどんな風に降るの?」って質問しました。

――すると?

 「京さん、青森の雪ってのは上からも横からも、下からも降るんだよ」って、そう吉さんが言うんです。

――上からは解りますが、横から下からとは、それはびっくりですね?

 ほんとびっくりしました。京都生まれの私にとって、雪というものは上からチラチラ降るものだという、そんな概念しかなかったものですから。ただそういう雪だったら北極などのブリザードと一緒かなとは思いましたが。

――植村直己さんが単独で北極点へ到達した時のような?

 そんな感じをイメージして、吉さんが言う雪国の情景を想像してみました。

――そうすると「雪國」のあの有名なイントロというのは、ブリザードのようなイメージから生まれたんですか?

 たぶん普通でしたら津軽三味線でいったでしょうが、私はそれじゃ普通で面白くない、エレキ・ギター、それもツイン・ギターでいこうと決めました。

――この曲のイントロを聞くと、すぐ「好きよー、あなたー」の歌詞とメロディーが浮かんできますが、そういう曲は珍しいですね?

 「最近は、イントロを聞いて、その曲がわかる、そんな曲が少なくなりましたねー」という話を、つい先日も《BS日本の歌》のディレクターさんと話したばかりなんですよ。

――そうですね、色々な要素が入り過ぎなんでしょうか?

 すっきりでシンプルが一番良いんですが、今のレコード会社のディレクターさんは、それだと承知しないのかもしれません。イントロが複雑だと個性が薄れてしまうと思うんですが、でもまあこの話は微妙で難しい問題ですが。

――NHKラジオ第一の「ラジオ深夜便」という番組の中に「わが人生の歌物語」という2010年まで59夜続いたコーナーがありまして、作家・五木寛之さんが、ご自身の生きてきた時代と、その時代に流行った歌について語ってこられましたが、「雪國」のことについても触れていらっしゃいます。ご存知でしたか?

 いいえ、「ラジオ深夜便」という番組は聞いたことはないんですが、夜中の番組なのに視聴率が高いそうですね?

――夜遅く起きていらっしゃる方が多いのか、それとも早起きの方なんでしょうか、とにかく視聴者の方が多いそうです。
その第52回目で、1986年頃の歌謡曲を取り上げ、「雪國」について五木さんが話されていらっしゃいます。

 それは、ラジオの中でですか?

――そうです。それでラジオ深夜便を本にした月刊誌がここにありますので、それをちょっと読んでみます。
五木寛之:演歌といえば、吉幾三さんの「雪國」が大ヒットしましたね。「雪國」というと三味線の音でも聞こえてきそうなタイトルですけれども、昔だったらギターでいくところをエレキを使ったイントロで、こうしたモダンで新しい歌謡曲がどんどん出てきました。聞いていて楽しかったし、歌番組が多くて、歌好きの人間としては幸せな時期でした。
五木寛之さんにとって、エレキ・ギターのイントロがとても印象深かったのでしょうね。ただ、そういう思いは「雪國」を聞いた一般の方全部が同じように感じたことでもあったと思いますが?

 前にも話をしたかもしれません。ポップスのヒット曲が100万枚売れたら、聞いた人が100万人いたことになるが、演歌のヒット曲が100万枚売れたら、300万人以上の人がその曲を聞いていたということになる、という説があります。それだけ演歌を聞く人の底辺は広いということだと思います。残りの200万人の方にも買ってほしいですが(笑)。

――このツイン・ギターはお一人で演奏されているんですか?

 勿論これはダビングです。津村泰三さんが演奏されてます。ギンギンのロックを弾く方で、当時のスタジオでも引っ張りだこでした。当時、彼はツイン・ギターを独特の奏法で演奏する唯一の人で、この時も、彼からの逆提案というか、彼のアイディアを随分取り入れて録音しているんですよ(笑)。

――ツインということで音がダブルでインパクトがありますが、ギターの音色自体にも特長があって、とても印象が強いように思いますが?

 今では当たり前なってしまいましたが、当時はほとんど使わなかったディストーションを使って演奏したのが功を奏したように思います。それまでは、ファズなど、ギターに備わっている電気的機能を使って演奏することがほとんどでした。

――ディストーションはどんな風にするんですか?

 ギター奏者をブースに入れて隔離して、本人の出すエレキの潰れたような音を一度スピーカーから出して、そこから出るギターの音を今度はマイクで拾うという、手の込んだことをするんです。空気がある空間へ音を放り投げて、それをあらためてマイクで拾う方法です。

――そうするとあんな激しい、心を揺さぶるような音になるんですね?

 先ほど話したTV番組「そして歌は誕生した~名曲のかげに秘められた物語」の中で、泉ピン子さんが「雪國」について話されてます。イントロが大好きだと。イントロを聞くと昔の歌謡曲のようで、これから緞帳が上がるようでワクワクする、そんな感じがして好きだと。で、この曲は絶対にヒットすると思ったそうです(笑)。

――イントロの魅力から曲が好きになる方って多いんですね?

 そういえば吉さんは、「雪國」を出した年に、NHK大河ドラマに「いのち」に八木金太役で出演されていました。吉さんは役者としても才能がある方で、津軽の運び家さんを演じた吉さんの魅力も「雪國」のヒットにに拍車を掛けたのかもしれません。余談ですが関西弁もお上手で、とても勉強家でいらっしゃいます。

――大河ドラマの出演は1986年、昭和61年のことですね?

 そう、それで忙しくて、当時は定番だったレコードのキャンペーンもできず、発売後暫くはレコードは売れなかったようです。

――発売年のオリコンのトップ100を調べると、10月6日に93位で初登場です。発売が2月ですから、8ヶ月経ってようやくの93位です。従って年間順位も328位という実績が残ってます。

 ところが、年末の紅白に出場してからは、これはすごかったなー。

――初登場の後、急速に売れ初めました。紅白を境に売れ行きは爆発的で、年を越えた1月12日には一挙4位を獲得、その後、3位、4位と続き、2月9日にはついに1位を獲得するというすごい流れになってます。

 あれよ、あれよという感でしたが、有線のリクエストもすごかった。1986年の有線大賞の有線音楽賞をいただいていると思います。

――オリコンの1位獲得の歴代第300番目という区切りの良い曲にというおまけまで手に入れました。1987年の年間ベストテンの中で3位を獲得してその年の販売数約35万枚という実績も残しました。この数字はアナログ・シングル盤の実績で、CDシングル盤も平行して出ていましたから大変な数だと思います。

 年間3位ということですが、その年のベスト5は?

――その年のベスト1位は「命くれない(瀬川暎子)」です。2位は「TANGO NOIR(中森明菜)」、3位が「雪國」(吉幾三)」で、4位は「STAR LIGHT(光GENJI)、5位が「難破船(中森明菜)」といったところです。

 演歌が、ポップスと対等に戦っていた時代だったんですね。

――吉さんの歌は3連音符が多いように思うんですが?

 良く気がつきましたね。「雪國」の後にリリースした「海峡」も同じく3連音符で出来てる曲かと思います。でも吉さんは3連を感じさせない独特の歌い方をされるんです。リズムを頭打ちで歌うん、ちょうど軍歌を歌うような感じといったら分かりやすいかもしれません。本当に独特で、他の歌手が「雪國」など吉さんのオリジナルを歌うと別の歌になってしまうんですよ。これは面白いほど違ってしまって、吉さんのような味にならないんです。

――吉さんの父親の鎌田稲一さんは民謡歌手でいらっしゃる関係で、吉さんは幼少から民謡に親しんでこられたと想像します。吉さんの歌には民謡の影響があるのでは?

 多少はあるかとは思いますが、民謡といっても色々ありますし(笑)。

――民謡の譜面って、2拍子で書かれています。軍歌も2拍子。そういうこととは関係ないかなー(笑)。
ところで、歌の出だしで気がついたんですが、一番の出だしの「好きよー」と「あなたー」の後を追いかけるように女声コーラスが出てきます。3番も同じように「好きなー」と「ひとはー」の後に女声コーラスが出てきます。ところが2番の「まどにー」と「おちるー」の後に出てくるのは、女声ではなくシンセサイザーのグロッケンの音です。これは?

 これも良く気が付きましたね、これはもちろん意図して編曲していることです。

――意図していること?

 私の尊敬する宮川泰さんと仕事でご一緒する時、編曲について雑談することがよくありました。宮川先生は「歌の歌詞が1番、2番、3番と全部違うのに、アレンジが毎回同じってのはおかしいよなー、京ちゃん」と機会あるごとにおっしゃっていました。「自分が作詞家だったら、きっと文句をいうだろう」などともおっしゃて。アレンジャーとしての誠意ある仕事を示すためには、歌詞を尊重することがいかに大切かということを先生に教えられた気がします。

――ある意味、編曲家としての心構えを京さんに伝えたかったんでしょうね?

 宮川先生は才能豊な方でしたが、仕事でそういう才能を生かす一方、編曲家のあるべき姿を後輩にきちっと示して下さる方で、本当に勉強になりました。有難かった。

――先輩である先生の教えを守ったということですか?

 先生の教えを「雪國」で具現化したということです(笑)。
詞をよく見て下さい。きっと分かります。

――あらためてよく見てみたいと思います(笑)。
さて、京さんと吉幾三さんの関係は大変深くていらっしゃって、吉さんのシングル盤は「雪國」の後に「海峡」「酔歌」をはじめ、川中美幸さんとのデュエット曲「出張物語」から「かあさんへ」まで10枚以上も編曲をされていらっしゃいます。また吉さんのLP盤ではオリジナルやカヴァー曲など数多く編曲を手がけていらっしゃいますので、今日はここまでとしたいと思います。次回あらためて「雪國」以降のシングル盤についてお話を伺っていきたいと思います。
本日はお忙しい中、お時間をいただきまして有難うございました。

 こちらこそ有難うございました。

第6回インタビュー

1 Response to 第5回インタビュー 吉幾三「津軽平野」「雪國」

  1. 大石良雄 のコメント:

    拝啓 このサイト様へは初訪問ですが、よろしくお願いいたします。「京建輔さん」と言えば、忘れられぬ思い出がありますが、ご本人様は記憶されておりますでしょうか。1973年(昭和48年頃)と記憶しております。当時「都下の某私立高校の生徒」でした自分は、4才から始めたクラシックピアノの腕であちこち荒らしまわっておりましたが、偶然この「高校の事務をしていた臼井昭さん」と言う方と仲良くなりました。実はこの方は当時有名な「アマチュア作曲家」で、多数の曲を発表され「NHKの彼方のメロディー」等でもオンエアされていました。そして当時、地方から上京してきた「上原ことみ」と言う歌手志望の女性の為に、臼井昭さんは自主制作で「多摩慕情」と言う17センチシングルを制作したのですが、このアレンジを担当されたのが「当時30代の若き日の京建輔さん」だったのです。「多摩の夕映え、何故赤い」と言う本当にドロ臭いまでのど演歌で「セットドラムス、ベース、リードギター、オルガン」の僅か4人の編成でしたが、アオイスタジオでレコーディングされた本格的な作品でした。アレンジも綺麗にまとまっていましたね。当時京建輔さんは「頑張れレッドビッキーズ」等の音楽を担当され、いよいよお名前が出てきた頃でしたね。臼井さんが「まだ35才くらいだが優秀だよ」と言っていたのが忘れられません。京建輔さんは覚えておられるでしょうか? 当時10代の自分も今年還暦を迎えます。これからもお元気で、ご活躍をお祈り申し上げます。なお「多摩慕情」は、何処かに音源が残っているかもしれませんが、、、敬具

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