第7回インタビュー 坂本冬美「あばれ太鼓」「能登はいらんかいね」「火の国の女」

――おはようございます。今日はお忙しいところ有難うございます。今回は、今大活躍の坂本冬美さんを取り上げたいと思います。
京さんは坂本冬美さんのデビュー曲「あばれ太鼓」を始めとして、「能登はいらんかいね」、「火の国の女」など坂本冬美さんの代表曲を編曲されています。この3曲を作曲した猪俣公章さんはお亡くなりになる1993(平成5)年まで、坂本冬美さんに大変沢山の曲(64曲)を提供されましたが、京さんはその約半分にあたる31曲を編曲されています。これらの多くはCDアルバムで楽しむことができますが、今回はビッグ・ヒットのシングル盤にスポットを当て、編曲に纏(まつ)わるお話を色々とお伺いしたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

 こちらこそ。どうぞ宜しく。

――坂本冬美さんは、猪俣公章さんのお弟子さん、それも内弟子でいらしたそうですが?

 そうです。デビューする前から猪俣先生のご自宅に、住み込んでいらっしゃいました。お客さんが来るとお茶をいれたり、譜面のコピーをとったり、お手伝いさんのように家の中を走り回っていらっしゃいました(笑)。

――歌手になるための内弟子ということでしょうが、家の中の雑用などもされていらっしゃったんですか?

 そうです。どちらかといえばそのほうがメインで、場合によっては運転手も。先生が六本木で飲むときなどは、送った後に運転席で帰りを待つなんてこともあったようですよ(笑)。

――ではデビューするまで、お手伝いで忙しかったでしょうが、歌のほうは?

 東芝EMI(今のEMIミュージックジャパン)のデビューが決まっていたようです、曲までは決まっていなかったんですが。沢山の関係者が猪俣先生のお宅に出入りされてまして、先生のお宅に伺うと、必ず、あーこんな良い娘(こ)がいるんだなーと、皆さん関心して帰るんです。まあ、アピールというかお披露目の意味もあって、猪俣先生は冬美さんにお手伝いをさせていたのかもしれませんが。

――冬美さんにお会いした時の印象は?

 その頃、冬美さんは二十歳(はたち)前でしたから、元気溌剌で、コロコロと太っていらして、活気のある娘さんだなー(笑)という印象でしたかね。

――学生時代、ソフトボールの選手だったとか?

 そう、キャッチャーだったんですよ。だから活発な上に、回りへの配慮ができる娘(こ)だったのかもしれませんね。

――猪俣先生のご自宅でのレッスンは?

 それが猪俣先生は、たいしたレッスンというか、どこでもやるようなレッスンはされてなかったと思います。歌を口移しで教えるというような、懇切丁寧な指導はなかったと思います。

――では、新譜の録音時はどうされていたんですか?

 レコーディングの寸前にメロディーを教える位だったようですね。

――師匠の技を背中から盗み見て修業する、職人さんの世界のようですね?

 猪俣先生は天才的音楽観をお持ちで、編曲の打ち合わせなどもとても簡単に済んじゃうんです。「あそこはこうしてこんな感じで、ここでこの楽器はあの人にやってもらって」といった具合で、とても短かい時間で終わるんです(笑)。

――新譜のオケの録音の時もそういった調子なんですか?

 それが、「適当にやっといて」と言って、現場にはいつも来なかった(笑)。でもテンポだけはチェックが厳しかった。オケの録音の途中、こっち(スタジオ)から電話して、「先生これでどうでしょうか?」って、録音した音を電話機で聞かせるんです。

――電話でチェックですか?

 そう、そうすると猪俣先生、「もうちょっと早目にしようか、・・・・・ああ、それでOK」なんて調子でした。大雑把なようでそうでない。音楽的に特殊な能力、才能をもった方でしたね。

――天才的音楽観の意味がわかるような気がします。猪俣先生は古賀政男さんの弟子だそうですが?

 そういうことになってますね。ただ猪俣先生は日大芸術学部で勉強されていらしたから、その頃には既に音楽については通じていたはずです。なにしろ独特の感性をお持ちになっていましたから。

――森進一さんの「女のためいき」や「港町ブルース」、水原弘さんの「君こそわが命」など、もう20歳後半から30歳前半には沢山ヒット曲を書いていらっしゃるんですね?

 天才的音楽観は若くしてすでに花開いていましたね。

――そういった天才的音楽観をお持ちの猪俣さんが、なぜ坂本冬美さんを内弟子にしたんですか?

 和歌山で開かれた、NHKのテレビ番組「勝ち抜き歌謡天国」の優勝がきっかけなんです。

――どんな番組ですか?

 歌手をめざす人が登場する番組ですが、決勝戦(1986年3月8日放送)になると作曲家の先生の指導を受けて、その結果を披露する形で歌うんです。それを会場のお客さんと審査員の先生方が採点して、優勝者を決めるんです。そこで坂本冬美さん、見事勝ち抜いて優勝されました。

――そのとき坂本冬美さんを指導した先生は?

 猪俣公章さんです(笑)。その時はとても的を得た指導をされてて、それが功を奏したか、坂本冬美さんが優勝されました。冬美さんが歌う横では猪俣先生、一緒にリズムをとりながら一生懸命応援されてました。

――それで内弟子にしようという運びに?

 すぐ東京に呼んだようですよ。ただ内弟子になってからの指導は、さっき言った通りの猪俣流ですから。決勝戦のときの指導が一番ちゃんとしていたのかもしれませんね(笑)。

――その時歌った曲は?

 米倉ますみさんの「俺の出番はきっと来る」(はぞのなな作詞・斉藤正毅作曲)だったかと思います。

――他の出場者の方たちを指導された作曲家は?

 市川昭介さん、中村泰士さん、宮川泰さん、岡千秋さんだったかな。

――すごい顔ぶれですね?

 それに審査員の先生もビッグでして、遠藤実さん、それに、たかたかしさん、ゲストが小林佐知子さんだったと思います。

――たかたかしさんは、坂本冬美さんのヒット曲の作詞を沢山されてますね?

 そうです。ですからそのときに作詞・作曲のお二人とのコンビの運命的な出会いがあったわけです。

――和歌山でOLをしていた歌手志望の冬美さんにとって、本当にラッキーなことだったんでしょうね?

 ここで優勝できなかったら、歌手になる夢はあきらめたかもしれないとおっしゃってましたね。梅干の会社で研究員だった冬美さんの願いがつながったわけですから。でも、その時の声は既に素人ではなく、プロの歌手の声でしたね。猪俣さんはそれをお見通しだった、先見の明があったのだと思います。

――この娘(こ)は大歌手になると?

 その通りだと思います(笑)。そういう経緯があって本名の坂本冬美でデビュー、となったんです。

あばれ太鼓

――坂本冬美さんのデビュー曲「あばれ太鼓」(たかたかし作詞/猪俣公章作曲1987-3-4発売TP17935)ですが、当初からこの曲でデビューしようということで録音されたんですか?

 いえ、それが全然違うんです。デビューの際、レコード会社(東芝EMI)は冬美さんのために8曲の候補曲を用意して、その中からデビュー盤にふさわしい曲を選ぼうとしました。これはデビュー曲をなんとしてもヒットさせるための戦略だったと思います。

――8曲とは随分と贅沢なことですね?

 大型新人ならではの作戦だったのでしょう。私はその8曲のうちの5曲の編曲を頼まれて書きました。

――残りの曲は?

 小杉仁三さんが編曲されました。

――小杉仁三さんは坂本冬美さんの2枚目のシングル「祝い酒」の編曲者ですね?

 小杉さんは、水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」や美川憲一さんの「新潟ブルース」などクラウン・レコードでヒットを沢山だされた大先輩(2009年7月、80歳没)です。

――「あばれ太鼓」は87年の春(3月4日)の発売ですが、依頼された5曲の編曲はいつ頃されたんですか?

 ここに録音した日のデータがあるので見てみましょう。「あんちくしょう」と「人生どまん中」の2曲を1986年11月10日に、そして3日後の13日に「あばれ太鼓」を、4週間後の12月11日「あじさい酒場」に「海峡の詩」をそれぞれ録音してますね。

――録音日の資料があるんですか?

 ええ、スコアの表紙(一頁目)に曲名を書くんですが、録音日も記入してます。当然、編曲となると録音日のちょっと前になるわけですが、編曲した日まではさすがにわかりません。録音日ぎりぎりの当日早朝ということもありましたが(笑)。

――すると発売4ヶ月前の5曲のうちのまん中に録音した「あばれ太鼓」が、候補の8曲の中から坂本冬美さんのデビュー盤に選ばれたわけですね?

 そうです。それにはちょっとしたエピソードがあって、今でも思い出すと笑っちゃうんですが、「あばれ太鼓」がデビュー盤に決まったとき、私はゴルフ・コンペで、東芝EMIの担当者の方々や、坂本冬美さんの所属事務所の社長さんと一緒でした。12月か1月の冬の寒い時で、何ホール目だったか忘れましたが、私がティー・ショットでテイク・バックしてクラブ・ヘッドがトップにいった瞬間、冬美さんの事務所の小林社長さんが(たぶん電話連絡があったんでしょう)、「京さーん、冬美のデビュー盤が『あばれ太鼓』に決まったよー」って叫んだんです。それを聞いて「エーッ!」って思ったけど、もうスイングし始めてますから、どうしようもない。おかげでナイス・ショットがナイス・チョット(チョロ)になっちゃいました(笑)。

――あいにくの掛け声にしては、絶妙のタイミングでしたね(大笑)。デビュー曲にならなかった残りの4曲はどうなったんですか?

 「あじさい酒場」は「あばれ太鼓」のB面に入りました。それとシングル盤の発売のすぐ後にアルバムCD(CA32-1417〈1986-4-22発売〉「あばれ太鼓/坂本冬美」)が出ました。その中に「あじさい酒場」をはじめ、残りの「人生どまん中」「海峡の詩」の3曲が収録されました。小杉仁三さんアレンジの楽曲も一緒にですね。

――そうですか、3曲はアルバムに入ったんですね。でも、「あんちくしょう」は?

 ずっと後に発売のアルバムに入りました(1991年)。

――「あばれ太鼓」の反響は凄かったようですね。久々の若い娘さんの演歌ということで、新鮮なこともプラス要因だったようですね?

 そうです、うちのカミサンなど、すぐに覚えて近所のカラオケ屋さんで良く歌ってました。

――竹を割ったような曲ですから、カラオケのリクエストも多かったでしょうね?

 そうなんです。ところが坂本冬美さんご自身は、「あばれ太鼓」のような男歌は、デビュ曲としては一番ふさわしくない曲だと思っていらしたんです(笑)。これは後になって分かったことなんですが。

――それはまた何故ですか?

 坂本冬美さんが、NHKの「トップ・ランナー」という番組(1998年4月3日放送)に出演したときも、大江千里さんの質問に同じことをおっしゃってます。

――デビュー曲にふさわしい曲とはどんな曲だと?

 冬美さん、石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」が大好きで、その影響もあって演歌歌手になろうと思ったそうです。で、「津軽海峡・冬景色」のような女歌が自分のデビュー曲には相応しいんだと考えていらした。

――それが全く反対の「あばれ太鼓」という男歌、「無法松の一生」ですからねー?

 そうなんです。九州は小倉の荒くれ者・松五郎の話がテーマですから。とは言ってもデビュー曲は一生歌手についてまわる大切な曲ですからね。冬美さんのその時の気持は理解できますよ(笑)。

――本家本元は村田英雄さんの「無法松の一生」で、昔ながらの演歌の定番ですよね?

 それで冬美さん、猪俣先生に言ったそうです。

――なんておっしゃったんですか?

 「先生、この曲は今の時代には合わないと思います」って。

――猪俣先生に言っちゃった?

 でも、まあ、売れましたからねー。ご本人もそれは納得されていらして。それで「でも、さすが先生ですね、見る目がある」ってその後そうおっしゃってたので安心しましたが(笑)。

――それでこそ内弟子ならではの発言ですね?

 それと、「お客さまから、『よっ、これぞ冬美!』って言われると、やっぱり《あばれ太鼓》に寄せられた応援ですから、猪俣先生からデビューにぴったりの曲をいただいたなあと感謝してます」と述べていらしたので、私としても嬉しかったです。

――なんといっても80万枚のヒットですからねー。京さんが以前おっしゃってたことを当てはめると、歌を聞いて好いなーと思った人の数は、その数倍の、400万人以上になるってことですね?

 結果、最高のデビュー曲となったわけですね。

――NHKのテレビ番組「勝ち抜き歌謡天国」の審査をしていた、たかたかしさんの作詞で、歌の指導をした猪俣公章さんの作曲で、冬美さんにしてみれば、その時に引かれた路線が予定通りいったということになりますね?

 そういうことになるかもしれませんね。たかたかしさんにしても猪俣先生にしても、さすがヒット作りのプロですよね。確か新人賞など、賞をたくさん獲ったと思いますよ。

――1987年の日本歌謡大賞の放送音楽賞やFNS歌謡祭の最優秀新人賞、日本演歌大賞の希望の星賞など獲っていらっしゃいます。さて、編曲するにあたってご苦労はどんなところにありましたか?

 題材が無法松でしょう。村田英雄さんの「無法松の一生」の発売は1958年頃かと思います。今でも定番の「度胸千両入り」の副題がつく「無法松の一生」はそれから20年ほど経ってから出ましたが、今でも人気の楽曲です。カラオケでも歌の上手な方が歌いますよね。

――大御所の大ヒット曲、同じ題材を扱うわけで、その点が?

 高いハードルだと思いました。とにかく和太鼓を使わないわけにはいきませんし、当然リズムだって同じような印象にしなければ格好がつかないわけです。でも真似するわけにはいかない。どうやっても似てきてしまう。そのあたりをどう解決して女声の「無法松」にするかが大変でしたね。色々と考えた結果、イントロに和太鼓を使うことにしました。前奏はティンパニーとトロンボーンのきっかけを弦が追いかけるという絵柄にしましたが、その中で和太鼓を使おうと考えたんです。

――同じ題材をテーマにするという、演歌の宿命なんでしょうか?

 テーマが一緒ですからね、どうやっても似てきちゃう。事務所の小林社長さんも録音当日、「京さん、それでいいんだよ。同じほうがいいんだよ」とおっしゃってくれて。次第に私もそれで良いのかなーと思いはじめたんです(笑)。そしたら気が楽になった。

――聞く人が、納得すれば言い訳で、すでに出来上がっているイメージを壊すのではなく、大切にすると考えれば良いんでしょうか?

 最近そう思えるようになりました(笑)。でも発売当初、テレビ番組で村田英雄さんにお会いしたとき、イントロの編曲について聞かれたら、なんて答えれば良いか、その時躊躇する自分がいました。でも後で聞いた話では、「あばれ太鼓」を歌った冬美さんに、村田さんから太鼓の撥(ばち)をプレゼントされたそうで、それを聞いて、ほっとしたのを覚えてます。

――村田英雄さんから無言のお墨付きが出た、ということですね?

 考えたら、その頃には女性の和太鼓奏者も沢山いらっしゃったし、祭の神輿にしたって、女性が格好良く担いでいましたからねー。

――イントロの6小節目に弦と一緒に出てくるマンドリンのような楽器はなんですか?

 大正琴です。グロッケンも一緒にやってますが。このメロディーのリズムがまさに無法松なんですよ。メロを奏でる大正琴は昔の雰囲気を醸すにはとても大切な役割をしてくれます。最近なかなか使わなくなった楽器のひとつですが、渋い、味のある音色が良いでしょう。

あばれ太鼓 ――無法一代入り――

――「あばれ太鼓」に「~無法一代入り」という「あばれ太鼓」の別バージョンがありますが?

 「あばれ太鼓」が評判で、追っかけで企画されました。スコアに書いてある私の録音データでは1987年9月27日となってますので、「あばれ太鼓」のほぼ一年後の録音ですね。

――「~無法一代入り」のシングル盤・LP盤が、共に1987年11月25日の新譜ですから、録音から発売までの期間が随分と短いですね?

 「あばれ太鼓」の売れ行きが良いので、特別に短期間で発売されたのかもしれませんね。

――「あばれ太鼓」にアンコ(違う曲を曲中に入れること)を入れようという企画、アイディアは、村田英雄さんの「無法松の一生 度胸千両入り」というお手本があったからでしょうか?

 たぶん、そうだと思います。村田英雄さんの場合「無法松の一生」単体よりも「度胸千両入り」のほうが人気も高く、たくさん売れました。それにあやかろう、というよりも、元の楽曲と両輪で動くことができるし、舞台でも使えるということで生まれた企画かと思います。それとTV番組で歌う時良いことがあるんですよ。

――良いこと?

 TVだと普通2コーラスしか歌えないでしょ。

――1番と3番を歌うケースが多いようですね?

 「無法一代入り」は、本体の曲が2番までしかないので、まるまる歌えるという利点があるわけです。アンコで終わることはできないから(笑)。

――編曲にあたって、猪俣先生との打ち合わせは、この時も短時間だったんですか?

 それがこの時、打ち合わせはなかったと思います。

――なかったんですか?

 猪俣先生、お忙しかったのか、曲の譜面と詞とアンコのデモ・テープが送られてきただけだったので、ちょっと大変でした。実は本体の曲のキーと、アンコのキーは違っているんです。それをいかに同じキーのごとく、違和感がないように繋(つな)ぐか、この辺が苦労といえば苦労でした(笑)。

――それでアンコの曲調ががらりと変わるところが、余計引き立って面白くなるんですね?それと歌詞の「R」の発音などを、ちょっと巻き舌にして歌うところ、冬美さんらしくて魅力的ですね?

 そう、冬美さん男歌があってるんですよ(笑)。

――アンコの歌のバックの三味線が、とても印象的ですが?

 多少浪花節的な曲調もあるでしょう、歌を生かすためには三味線が必要なんですが、三味線も和楽器ですから、オケと同じように細かい旋律をドンカマに併せて弾いてもらうのが、結構大変なんですよ。

――アンコから三番の元歌に戻るところが、また面白いですね。聞いてる者にとっては、懐かしい家に帰るときの感じに似て、安心感が湧いてきますが?

 本体とは全く違うアンコを、あえて入れるという意義はそんなところにあるのかもしれません。

――CDジャケットの太鼓をたたく冬美さんの姿、凛々しくて可愛らしいですね?

 これぞ女無法松、といったところでしょうか(笑)。

能登はいらんかいね

――坂本冬美さんの7作目のシングル盤「能登はいらんかいね」(1990〈平成2〉年5月9日発売 TOST-2520/TODT2520)は久々のヒットになりました。

 実は、3作目が「祝い酒」(たかたかし作詞・猪俣公章作曲・小杉仁三編曲)で、発売直後すぐに火が付くといわれてたんです。ところが昭和天皇がお隠れになられた昭和64年1月をはさんで、世の中自粛ムードになりましたね。「祝い酒」は前年の春(1988年4月6日)の発売で、年末にむかってヒットの兆しが出てきたんですが、自粛ムードの時期と重なってしまった。TVコマーシャルで井上陽水さんが、車に乗って「皆さんお元気ですか?」というのがあったけど、それも放送局の自粛で打ち切りになりましたね。

――そうでしたね。「祝い酒」というタイトルだと、マスメディアで宣伝や販促活動など難しかったんでしょうね?

 そう、その時はね。でもその後売れまして、結果「祝い酒」は冬美さんの大ヒット曲となりました。

――さて、この「能登はいらんかいね」、曲はもちろん猪俣公章さんですが、詞が岸本克己さんという方です。この方は能登に縁(ゆかり)のある作詞家さんでしょうか?

 ちょっとわかりませんが、冬美さんのこの曲以外では、他に岸本さんの名前を見かけないので、そうかもしれませんね。「ふるさと能登はヨー」という歌詞が一番から三番まで3回登場しますので、その可能性は大いにあるかもしれません(笑)。でもはっきりとは判りません。

――この曲をあらためて聞いてみましょう。・・・・・・・・・。聞いてまず格好いいなーと思う箇所は、歌の2番の後の間奏に出てくる勇壮な太鼓ですが、これは?

 これは御陣乗太鼓です。能登半島の輪島の太鼓ということで、これは地元の本物の叩き手をスタジオにお呼びして録音しました。当初は、普通の和太鼓でも良いかなとも思ったんですが、やっぱりほんまもんでなきゃーということになりまして。

――太鼓のリズムも凄いですが、打ち鳴らしながらの掛け声も迫力がありますね?

 戦国時代(1576〈天正4〉年)に村人が上杉謙信の軍に対抗するために考えられたそうで、恐ろしい鬼の面(夜叉など)を被って敵を追い払ったという伝説が残ってるそうです。あの掛け声はミエを切る時に出す声なんですよ。

――迫力満点ですね。編曲の際のご苦労は、どんなところにありましたか?

 日本海の自然は厳しいでしょう。また冬は格別で、そんな厳しい環境で生きる能登の人々の普通の暮らしが思い浮かぶようでなきゃいけない、そうすれば結果この詩が生きることになるんだと考えました。もっとも、三番の歌詞に〈御陣乗太鼓〉という固有名詞が出てきますね。

――三番の最後ですか?

 本物の叩き手を曲中で使うということは、ある意味簡単なんです(笑)。でも、日本海の厳しさにふさわしい旋律、それも歌に合った旋律をイントロ・間奏を作り、それを表現するのにピッタリな楽器も考えて、歌を盛り上げなきゃいけないわけです。

――ピッタリとは、どんな楽器ですか?

 この曲ではイントロに二本のリコーダーとマンドリン、それにガット・ギターやバス・クラリネットなどです。

――歌前の、あの低い音色の楽器、あれがバス・クラリネットですか?

 そうです、略してバスクラって呼んでます。低い音色の木管楽器の響きから、日本海の厳しさが感じられるでしょう?

――ええ、人間の力ではどうすることもできない、情け容赦のない日本海の自然の厳しさがイメージできます(笑)。ガット・ギターはお馴染みの木村好夫さんでしょうか?

 判りますか。粒立ちの良い音色が素晴しいですね。マンドリンもお馴染みの宇都宮積善さん。バスクラはちょっと忘れました。ドラムはいつも通りチコ菊池さん、弦はお馴染み玉野グループで、これまたいつもの響きです。歌のサビ前の素晴しい駆け上がりを聞いて下さい。

――1番の出だしの歌詞、「欠けた徳利に 鱈子のつまみ」と、3番の「冷やで五合 ぬくめて五合」という詞が出てきますが、呑み助には堪りませんね。

 こういうところが、たかたかしさん、上手いですね、男心を誘って。寒いにつけ、暑いにつけ、日本人には日本酒が合ってる、だから演歌なんだという、一種の方程式ですかね。

――「能登はいらんかいね」は1990年の日本歌謡大賞の最優秀放送音楽賞と日本演歌大賞(第15回)の演歌スター賞を受賞していますね?

 若いときから演歌で認められたのはすごいですね。花のある歌手は、受賞するチャンスも多くて。これ不思議ですけど、実際そうなんですよ(笑)。

火の国の女

――「火の国の女」(1991〈平成3〉年4月12日発売 TOST-2630/TODT2630)にまいりたいと思います。「火の国の女」、舞台は熊本ですね?

 そうです、歌詞冒頭に〈肥後は火の国よ、恋の国、燃える中岳よ、胸こがす〉とありますね。熊本を代表する山が阿蘇山で、その中岳には火口があって、今も噴煙を上げているんですよ。

――私事ですが、昔大分の友人を訪ねた後、一人でレンタカーを借りて阿蘇山に行ったことがあるんです。中岳の噴火口が見たくて、駐車場から歩いて火口へ向かったら、有毒ガスが発生したという案内がスピーカーから流れて、安全係りの人からは火口付近から早く離れろと言われ、あわてて駐車場まで逃げ帰りました。とても怖かった。九州には見るからに男性的な山が多いですが、中岳は女性ですか?

 きっとそうでしょう、いや、そこまではちょっとわかりません(笑)。

――イントロの2小節、弦の駆け上がりの前のベベンと鳴る楽器が気になりますが、これは?

 琵琶です。覚えていらっしゃいますか、「快傑ズバット」のインタビュー(第1回目)の時に、印象的で強烈な音色の楽器は琵琶だったということをお話しましたが、この「火の国の女」でも琵琶を使いました。印象的なイントロにしたくて。

――琵琶のベベンという音は、これから物語が始まるという、きっかけの音として最高ですね。「快傑ズバット」の時代とは違って、もうマルチ録音でしょうから、琵琶の録音でのご苦労は以前に比べると少なかったと思いますが?

 録音自体、技術的には楽にはなりましたが、それでもやっぱり、激しく琵琶を弾くことには、演奏される方は抵抗感をお持ちだったようです。楽器を痛めてしまうといけないので、早めに録音する必要はありました。

――演奏者は?

 この時は坂田美子さんにお願いしたと思います。今や世界的な琵琶の奏者で、おまけに美人でいらっしゃいます(笑)。

――ネットを見てみましょう・・・・・・。本当に美しい方ですね。幅広い活動をなさってらっしゃるのがよく分かります。イントロで掻き鳴らされる琵琶のベンの後に、(2小節目の琵琶はベンベンと2回鳴ります)、弦が出てきますが、その弦のかけ上がりの響きが、ドラマチックで良いですね?

 よく聞いてくれました(笑)。でもあまり言いたくはないんですが、この弦の響きはチャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》 をヒントにしているんです。

――チャイコフスキーの《悲愴》ですか?

 第一楽章です。

――《悲愴》といえば、カラヤンはじめ有名な世界の大指揮者が録音している、クラシック音楽の名曲ですよね?

 私は学生時代に京都のオーケストラによく借り出されて、クラリネットやバスーンを吹いていたことがあるんです。その頃からチャイコフスキーのロマンチックなメロディーが大好きでした。
一度、チャイコフスキーを演歌のアレンジにと思ってまして、この曲ではじめて実現できたんです(笑)。

――クラシック音楽と演歌が結びついたわけですね?

 たった2小節ですが、効果は抜群でした。アレンジャー仲間からも色々と質問を受けたことを覚えています。

――3小節目からの主題を演奏しているエレキ・ギターが心地良いんですが、これはどなたの演奏ですか?

 これは千代正行さんだと思います。フォークやガット・ギターなどのアコースティック・ギターに定評があるんですが、エレキ・ギターもなかなか良いでしょう。この時のドラムはチコ菊池さん、ベースは松下英二さん、当時新進気鋭のベーシストでチコさんのドラムとのコンビは演歌の録音には欠かせませんでした。ガット・ギターは木村さんかどうか、この頃体調を崩されていたかもしれません。

――「火の国の女」の作りは変則的ですね。通常3番まであるのが演歌の定番ですが?

 ツーハーフとも違いますね。ハーフと言われる後半部分(「熱かー、熱かー」の歌詞部分)が2番以降2回でてきます。ハーフといわれる部分はですから都合4回出てくることになります。その分「火の国の女」の激しい女の情念のようなものが聞き手に強く伝わるのではないかと思います。

――〈惚れた女子を抱きたけりゃ火傷覚悟で抱かんとね〉なんていう歌詞も本当に凄いですね?

 そのあたりが、たかたかしさんの凄いところでしょうね。舞台公演では、最後の「熱かー、熱かー」の繰り返しの箇所、舞台バックが真っ赤に染まって、冬美さんが床に倒れながら歌うんですが、とても迫力があって凄いんですよ。

――今度見てみたいですね。「火の国の女」では坂本冬美さんは日本演歌大賞や全日本有線大賞を受賞されましたが、藤田まさと賞も受賞されていますね?

 そう、1991年の藤田まさと賞は、第8回目にあたるんですが、それまでとは違った表彰の仕方、つまり作品として表彰するという形式をとったんです。

――といいますと?

 受賞対象を、坂本冬美(歌)、たかたかし(詞)、猪俣公章(曲)、京建輔(編曲)の4人対象の受賞となりました。

――通常は、歌手の方であったり、作詞家の方であったりですからね?

 編曲家としてこういう形の賞をもらったのは初めてのことで、とても嬉しかったのを覚えています(笑)。「祝い酒」の話の際、昭和天皇崩御と自粛ムードのことを先ほどしましたが、実は「火の国の女」でも同じようなことがありました。

――といいますと?

 「火の国の女」は発売してすぐに評判が大変良かったものですから、ひょっとして年末には、編曲家としてビッグな賞が戴けるのではという、これは回りからの声もありましたし、私も期待したところもあったんです。ところが、前年から火山活動していた雲仙の普賢岳が大爆発して大火砕流が起きて(6月3日)40人以上の人が亡くなりました。

――そうでしたね、報道関係者や、火山学者や、地元の消防団の方々等。

 そのことがあって、「火の国」という言葉に自粛ムードが湧きまして、編曲家としての受賞はないものと、あきらめていたものですから、藤田まさと賞をいただいたのが強く印象に残っているんです。

――さて、もっと京さんにお話を伺いたいのですが、残念ですが時間になりましたので今日はこれまでにしたいと思います。上記のシングル盤4作以外に京さんは、「男惚れ」や「船で帰るあなた」などのシングル盤の編曲を手掛けていらっしゃいますので、下記に資料を添付させていただき、次回にまたお話をお聞きすることにしたいと思います。本日はお忙しいところ有難うございました。

 こちらこそ有難うございました。

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「男惚れ」 作詞:星野哲郎 作曲:猪俣公章 編曲:京建輔
(1992(平成4)年4月22日発売 東芝EMI TODT-2820)

「船で帰るあなた」 作詞:池田充男 作曲:猪俣公章 編曲:京建輔
(1994(平成6)年2月2日発売 東芝EMI TODT-3185)

第8回インタビュー

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